元SIer、現在、自称、電算職・IT土方、どうでもよき事を書き綴り候らへども
唐突な自分語り、どうかなーとは思いますが。
ここは私の固有結界であります故…
変な話だが「自身の自意識が無かった」…では無いか…両親の操り人形であった訳では決して無いが。
上手く言えないが、「何も考えていなかった」、もしくは、「周りに流され、漠然と『そうなる』未来がある」としか…今となっては。
両親が小学校教諭、しかも母親とは同じ校区、プラス、田舎であるが故、周りの「教師の子は教師」と見られていた訳で、それだけは避けたかった。
しかしながら、自分がコンピュータで食っていくと漠然と夢想したのは、中学校の生物教師の影響であるというのは最高の皮肉、と言えるかもしれない。
この教師がSHARPのMZ-80を授業に持ち込み、ライフゲームを実演。
自分はそれに何か感じる事があったのか、この時点で漠然とではあるが、その道に進もうと決めた。
だからと言って、コンピュータゲームなどの娯楽系に進むか?と問われると、そうでは無かった。
これは非常に失礼な物言いであり、今はそういう事を全く考えていないが、「ゲームなどは生産性が無い」と。
および、コンピュータゲームを生業とする企業はこれから勃興して行く訳で、職業の選択肢としては考えにくかった。
また、高校・高専や大学の選択で、専攻として電子計算機に絞る事を特にしなかったのは、漠然と「専門でなくとも何とかなるだろう」と思っていたのは、当時、「プログラマ35万人不足」など、言われていた影響があったので。
更に、従姉妹の旦那さんの影響が大きい。
この方は、大学の研究室で情報科学を専門にしており、自分にコンピュータ・サイエンスの概念をもたらした。
また、後述する大学を紹介され、しかし特に興味がある訳で無く、記念受験したのだが合格。
自分は受験戦争の敗者と自認しているが、何とも複雑な気分に。
両親の懇願もあり、この時だけはそれを聞き入れ、この新設大学を選択。
高校3年の頃、同人誌と出会い、同人活動するなら東京、と決めていたのだが。
神戸市に新設された私学の商学部流通学科を卒業、物流戦略ゼミ所属。
在学中、学内情報誌の編集、学園祭パンフレットの作成、大学案内パンフレットの企画、卒業アルバムの制作など。
卒業後、就職のため上京、大学同窓会東京支部の設立支援。
本来なら東京の大学に進学、同人誌を作っていた筈なのだが残念ながら。
ところが学内の情報誌を制作したいという有志達と知り合い、サークルの立ち上げの段階から関わる事ができたので、そこで主に編集作業を担当していた。
なお、「編集」と言っても、情報を収集して記事にするプロセスではなく、「装幀」の方面に自分の興味があった。
この装幀のデザインやレイアウトの参考にしたのが、戸田ツトム氏の書籍、ペヨトル工房の書籍である「夜想」など、これらの装幀をされていたミルキィ・イソベ氏。
東京にあるJRグループのシステムインテグレーター企業に就職。
自分が「電算職」と自称しているのは、この会社の職能区分であり、語感がいいので今も使用。
なお、私は決して「エンジニア」ではなく…私ごときがエンジニアを名乗るのはおこがましい、今となっては「プログラマ」でさえ疑問符が付く。
客先常駐として、旅行業・証券業・製鉄業など大手企業の基幹系情報システムの構築…主に保守メンテナンス業務に従事。
1995年中旬から1年程度、業務の都合で米国ホノルルに。
メインフレームでの業務に始まり、ダウンサイジングの流行に伴い、クライアントサーバでの開発が多かった。
「客先業務」と言うと負の側面しか語られない様に思うが、この会社の看板の影響もあったのか、世間で語られる様な、そこまでエグい辛酸を舐めた記憶は無い。
前述の会社を退職。
確とした退職理由は無かったが、「自分一人っ子だし、そろそろ地元に戻る事を考慮しないと」という漠然な理由で。
元々入社時には数年で辞める…かも、と漠然と思っていた。
ところが様々な業務を経験するに従い、私の中で、転職する事と、当時の客先常駐として数年で様々な企業に関わる事は同義で、様々なシステムや技術に触れられる機会が多かった、というのもあり、退職の機会を逃していた。
退職後、今は存在しない東京都墨田区に存在した生涯職業能力開発促進センター(アビリティガーデン)で学び、同業他社に転職する訳だが…あまり語りたくない…2年で退職、というよくあるパターン。
次いで、知り合い経由で仕事を紹介いただき、2010年中旬から半年程度、業務の都合で中国厦門に。
現地採用の2名のプログラマと共に、日本国内のWebサイト構築業務を。
これを恐ろしく格好良く言えば、「ブリッジSE」になる。
両親の介護のため、地元、兵庫県加古郡に戻る…戻らざるを得なくなり、と同時に個人事業主に。
ちょうど3.11の一週間程前、中国のビザの書き換えで実家に戻ると母親がげっそりと。
さすがに仕事には戻れず、なし崩し的に介護離職する事になる。
その後、母親、父親、両親の飼い犬であるお犬様を看取り、家じまい・墓じまい、および自身の終活をぼちぼち行いつつも今に至る。
気紛れに大学の同窓会に参加した時、後輩君からコワーキングやコワーキングスペースについて教えられた。
その影響もあり、近隣のコワーキングスペースに居る事がある。
20代・30代は、今は存在しない会員制同人サークルで編集屋を。
有志で東京武蔵境のアパートの一室を借ていたので、そこを根城にしていた。
ところが大学生の頃、痛ましい事件が発生してしまう。
このため、表向きは一般人を装いつつ、裏では同人という二足草鞋だった。
2000年末に同人から足を洗い、紙の編集屋としてはここで終わる。
元々会員制サークルに属していたので、そのサークルが解散すれば次は無いだろう、という想いと、当時そろそろインターネットが流行り始め、そちらに舵を切りたいという想いから。
その後、ビジュアルノベルゲームのプレイの合間に仕事をしていた気が。
と同時に、悪趣味系・鬼畜系を好んでいた気がする。
下記、自分がウェブで何をやってきたか、の簡単な変遷。
(1stから4thは、このサイトそのものの変遷)
SIerの頃…2000年頃、固有名詞は挙げないが、ヘルプ…火消しで某就職ポータルサイトのプログラム製造に関わったのが最初かも。
開発言語はC言語、更に、今で言うHTMLテンプレートエンジン、それを独自関数で実装していた記憶。
その後、JavaのSpring Frameworkをベースに独自カスタマイズされたフレームワーク上での開発業務にも従事。
それはともかく、エモノ…器が変わっただけで、内容、コンテンツ(の質)は当時から、ほとんど変わっていない気がする。
と言うよりも、その独りよがりな駄文を加速するためのプラットフォームを目指してるのですが。
3rd.のWordPress、Gutenbergがまだ実装されておらず…アナウンスはされていたかも、REST APIが実装されたかな、という頃。
最終的にはWP-CLIで管理、その次、そろそろVCCWに手を出してみるか、の前に、訳あってサイトを閉鎖。
今回の4th.、そもそものサーバサイド生成から静的サイト生成という、自分にとっては大変更になる。
ちなみにPico CMSでの実装…足りない機能をプラグインとして独自実装していた程度までは進めていたが、結局、お蔵入りさせた。
この記事の初稿は2021年9月であり、ここからが新たに追加する内容になる。
2022年5月現在、新型コロナ禍に加えて、ロシアのウクライナ侵攻、蝗害はどうなったのだろう、の最中。
…とは全く別の流れで、自分の中で、もう充分長く生きた気がする事と、何より体調的に「残存年数を10年」と設定。
詳細をボカしつつもTwitterでつぶやいているが、コチラでもいずれまとめて。